北海道の庭園文化を築いた ランドスケープアーキテクト
バブル期の1990年、周囲の心配する声を気にもせず、都会から離れた大地で伸び伸びと仕事に向き合っていこうと、30人ほどの異才集団が東京を離れ十勝管内音更町の旧鎮錬(ちんねる)小学校校舎に拠点を移してきました。彼らを率いるのは、十勝千年の森の基本構想を作った高野ランドスケーププランニングの高野文彰氏。雄大な大地を俯瞰(ふかん)し、自然の植生を生かした空間は、京都の日本庭園や都会のアーバンランドスケープとも違う、北海道らしい庭園につくり上げられました。◎二人三脚で始めた森 創設者の林光繁から、初めてかかってきた電話で食事に誘われたのは94年のこと。道内でも次々とリゾート開発が進む中、エコツーリズムに着目した森を造りたいとの話を持ち掛けられました。造園予定地を訪れてみると、肥料や農機具は放り出され、荒れた状態でした。ただ、高野氏はこれまで国内外、幾多の施設設計に携わってきたプロフェッショナル。春夏秋冬を通して土地を見た上で、じっくり取り組ませてもらえるならと話し、森の基本設計を担うことになりました。
撮影:野呂希一◎森には何も持ち込まない、森からは何も持ち出さない まず手を着けたのは、生い茂った笹の刈り取り。そうすると、笹に埋もれていた野の花の種から芽が出て、年々広がっていきます。いらないものをなくし、植物の特性を引き出していくというのが、設計の根底にある「引き算のデザイン」の手法です。他にも、シラカバの木を1本だけ残して周囲は伐採し、残した木を大きく育てることもしてきました。切った木は歩きやすいようチップとして道に敷いたほか、イベント時にはテーブルの板として使用しました。◎唯一無二のガーデンショー 2012年にこの森で開催された北海道ガーデンショーのディレクターを務めましたが、企画を相談された当初は断るつもりでした。それは、従来の都市型展示会のように、数万人を短期間に集客して四季の花を一度に展示し、終わるとすぐに取り壊してしまうあり方に違和感があったからです。しかし、創設者の林光繁に「後ろ向きな議論をしにきたのではない。そうじゃないことを君たちにやってもらいたい」と説得されました。そうして実現したのは、春から秋にかけて129日間に及ぶガーデンショーでした。4人の招待作家や8人のコンペティション作家による作品が並んだイベントには20万人が来場し、大成功で幕を閉じました。
◎造園家の団体のアジアのトップに 19年からは、造園家らによる「国際ランドスケープアーキテクト連盟(IFLA)」のアジア環太平洋地域会長を務めています。優れたデザインを表彰するだけでなく、月1回、各地域の会長とオンラインの会議をし、温暖化問題をはじめ、近年はオーストラリアの森林火災、南アジア豪雨などを取り上げ、地球環境保全に向けた意見交換をしています。高野氏は、「こうした取り組みを世界へ発信していくことで、ランドスケープアーキテクトという仕事も広まっていけば」と話します。◎すべての人の夢の実現とともに 「建物には寿命があるが、自然は永久に変化し続ける。その中でランドスケープ・デザインの仕事はますます大事になる」との思いで、学問や理屈ではなく、自然と人間の対話による、持続可能な空間設計を目指しています。
これからも景観を設計していく中で、「この森が十勝毎日新聞社社長(当時)の林光繁の夢であったように、こんな空間を創りたいという誰かの夢を一緒に実現することが自らの使命」だと語ります。